朝倉文夫と呉昌碩銅像

5-14.jpg

呉国碩が缶禽の横にて、1921年

    

        朝倉文夫(1883田1964)、日本の有名な彫刻家であり、日本芸術院初代院長を務めたことがあり、彼本人も呉昌碩芸術の敏慕者である。1921年、朝倉文夫は2鹿の上半身銅像を彫刻し、一つは日本に残し、もう一つは他人に依頼して中国に連れされ呉昌碩に贈った。呉昌碩が銅像を西冷印社に移して保存し、印社がわざと小蹄池桐の側の石壁に、禽を撮って収蔵したが、残念ながら文革時期に紛失されてしまった。朝倉文夫の娘である朝倉響子がこの情報を知って、とても惜しく感じたので、改めて呉昌碩に高さ65センチの上半身銅像を彫刻した。1980年11月に、日本「説売新聞J社の小林奥三社長を団長として、青山杉雨、村上三島、小林斗傘、梅告予適等を団員とする「呉昌碩銅像訪中国Jはわざわざ西冷印社に訪問し、観楽楼で贈呈儀式を行った。ここから、中日芸術の一衣帯水を象徴する呉昌碩銅像は、西怜印杜の呉昌碩記念室(観楽楼)に置かれている。